テキュ

すうとして無理やりです

2018/7/4

この中の「ご高説おばさん 」に限って言えば、あれはわたしにとって非常に価値のある体験であった。今から2年ほど前、井の頭線に乗って吉祥寺から渋谷に向かっていた際に、(確か明大前だっただろうか)1人の中年女性がわたしの隣の席に座り唐突に「最近の若者は自分のことしか考えていない、お前もそうだ、だからお前は愛されないのだ」と小言を始めた。彼女は狭い車内の、さらに狭いわたしとの間に棘だらけの論壇を建てようとしていた。

その女性の主張の仔細は覚えていないが、要旨はずっと変わらず「お前は自分の事しか考えていないから、誰からも愛される事は無い」といったものだった。わたしには反論するための話力も、事を荒げても構わないという胆力も無く、ただ虚ろにはあ、ええ、まあ、と聞いていた。電車が終点である渋谷に着いたので、「そろそろ降りなければならないので」と言って席を立ったが、当然の事ながら終点なのでその女性も同じく降りるのだ。駅のホームに降り立った後も女性はわたしの横に付いてきて、お前は愛されないぞと言い続けた。足早に改札を抜けると、女性の声は段々遠くなっていった。わたしはもうほぼ泣き出しそうだった。

当時のわたしは揺り戻しのような盲目的肯定主義に傾倒した結果、心身共にパーソナルスペースが0どころかマイナスの状態になっていた。過剰すぎる共感と肯定がそこにあり、それこそが正義であると信じてやまなかった。自らの内的世界が無限に拡張していくように思え、そこにすべての他者を取り込めると思っていたわたしにとって、初めての - 音楽的/機械的なもの以外での - 暴力的そして社会的な理不尽への対峙であったかもしれない。

その体験を経て、わたしは半月もせず音楽においても「社会」や「外圧」をより明確に意識するようになった。そしてそこからわたしが、インターネット上で「白紙」と名乗って曲を書いている時の、「多重な外圧によるモティーフや動力、もしくは構造自体の異化や接着」という自身の創作のスタイルに辿り着くまでそう時間はかからなかった。

そして、このスタンスの上で「白紙」と名乗るのは明確に間違いであったことに気付いた。白い紙は「地」というイメージを容易に引き起こさせる。だがしかし、わたしにとって自然なものは何一つないのだ。

しかしまあ、今更改名するとなるとデメリットの方が多い気がするし、しっくり来る名前も思いつかない。だが同時にそこを押してでも名前を変えた方がいい気もする。誰かに相談してみようかな〜